自民党が反対する最大の理由は、「権利よりもまず義務を教えるべきだ」という点だ。学校で教師が子どもを指導しても、「自分らしく生きる権利がある」と反論されるのではないか、などという懸念がある。同党議員会政審会長の笹出昭夫市議は「権利を主張し、わがままを通す子どもにどう対応するのか」と指摘する。「権利を主張し、わがままを通す子どもにどう対応するのか」、この主張は正しい。権利を主張するだけで義務を果たさない大人が多い現状を鑑みるに、子供がむしろ自律と責任感を持つかどうかははなはだ疑問です。
札幌市の条例の元になった国連の「子どもの権利条約」についても、笹出市議は「後進国の子どもたちの保護を目的としたもの。日本の現状にはそぐわない」という。
これに対して市側は、「権利を与えないのではなく、行使する時に守るルールを教えることが大事」と反論。国連の権利条約についても「いじめや虐待など、子どもの人権侵害は依然としてある」と説明する。
市が市民から募った3500件余りのパブリックコメントでも条例への賛否を含め、様々な意見が寄せられた。「子どもの権利は憲法などで規定されており、条例にすることはない」との意見がある一方で、「権利を与えるとわがままになるというのは誤解。むしろ自律と責任感を促す」と、制定を望む声もあった。
日本人はしたり顔で権利や平等、自由を語りますが、欧米人と決定的に違うことがあります。
それは、秩序の位置です。
人は皆平等であり自由である、というのは多分にキリスト教的な考えです。人は神の前ですべて平等であり、人によってその自由を制限されてはならない。崇高な考えであり、人類普遍のものと思います。
しかしそこには、人の自由の頂点に「神の法による秩序」が厳然として存在するのです。
神が法として下した秩序に依ることで、人の自由は守られる。つまり(いろいろな考え方があるにせよ)、基準は秩序>自由なのです。
日本人(というか非一神教圏というべきでしょうか。この秩序>自由の理念はユダヤ・イスラムもおなじものです)は誤解している人が多いのではないでしょうか。自由は秩序を超越するものでは、本来はないのです。自由と無法は紙一重であり、それを律するには堅い秩序が必要であることを、宗教は教えているのです。
日本にも本来は、そういった一神教に依らない秩序が存在していました。それが「恥」の概念であると私は考えます。これもまた神道の精神に依るものであり、宗教であるともいえるのですが。
和をもって尊しとなす、という概念は、みなが個人の自由を追求していては成り立ちません。なぁなぁであるにせよ、自由と権利ばかりを主張して義務をおろそかにすれば村八分という形で制裁される。いまではこれも「いじめ」に分類されてしまうのでしょうが。
自由を教える前に義務を教えるべき、というのは当然です。現在その悪しき前例がいらないことばかりやって、もっとも大切な秩序を破壊しまくっているのですから、まずは秩序を回復することに奔走すべきです。
語り尽くされた話ではあります、が。